昭和44年03月24日 朝の御理解



 御神訓 一
 「生きたくば、神徳を積みて長生きをせよ。」

 信心の心得どの一カ条を申しても、信心さして頂くものの心得であり、心がけておかなければならんことであり、同時にそれを自分のものにしていかなければならないことが書いてございます、今日はその中の「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ」、とありますね。12345、5番目の所。生きたくば神徳を積みて長生きをせよと。長生きをするということはこれはもう皆んながそれを願うところです。みんなが長生きをしたいと思います。いわゆる人間が求めてやまないものなんだ。
 ですからここはただこう生きるとか死ぬるとか、そういうことだけではなくてですね、人間の求めてやまないもの、私共が求めてやまないものを受けたいならば、頂きたいならば、神徳を積めということだと思うんです。そこで例えばこの御教えの一つ前に「神徳を受けよ、人徳を得よ」、とありますね。私共の求めてやまないもの、それを受けたいなら生きたくばとね、受けたくばと言う事になりますね。求めてやまないものを受けたくば、神徳を積みてと仰るから、それで神徳を受けよ人徳を得よということ。
 先日の御理解に神徳と人徳と言う事について、神徳を神格人徳を人格と言う風に頂きましたね。こりゃ私はね神徳を受けていけてゆけばね、人徳はおのずと付いて来るものだと、そういう解釈を持っておりました。又それはまじ嘘ではないと思うんですけれども、今日私はここで思います事はね、成程神徳を受ければ人徳は付いて来ると。まぁこれはあのうそうですけれども、私はあのそれ前にね人徳いわゆる人格ですね。人格を作らなければ本当の神徳は受けられないと思うですね。
 人の信用が受けられないような人が、神様の御信用を受けていけれる筈はありませんものね。そこでその人徳を受けるとか人格を作って行くと言う事の為に、今度はその次の「わが心でわが身を救い助けよ」「信心する人は何事にも真心になれよ」というところを受けて行かなければならんと思うですね。続いておりますよね。神徳を受けよ人徳をえよと言うところからずうっと続いてますよ。1,2,3,4、「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ」と言う事はね。
 私共人間が求めてやまないものを、やはりその求めてやまないものを受けたくば、先ずなら神徳を積まなければ受けられん。おかげが本当に欲しいというても、健康が欲しいというても、様々な私共があぁあってほしい、あぁもありたいとこう思うても、これは神徳を受けなければそういう幸せは頂けないのです。ですから神徳をもう積んで行くということですね。神徳を受けていくためには私は、今日はね先ず人徳を受けなければならんと申しています。
 人徳とはね人格、自分自身と言うものを治めて行く、自分を深く見つめていく。親が信じられなくなった子供が信じられなくなった、家内が信じられない、確かに私共はそういう中にあります。本当の事を言うたらそうでしょう。ですから自分信じられるその親が欲しい、子供が欲しい家内が欲しい、又は友人が欲しい。これだけは信じておったけれどもけども裏切られる、と言う例がいくらもございましょう。いくら世界中で一番大事な親だと言ったってですよ、それは親だから大事なんですけれども。
 ならそれがうちの親はあそこがここがと言うところがありましょうが。子供でも家の子のここだけは信じておるけれども、ここがつまらんと言うところがありましょう。そこでやはり自分以外のものというものは信じられないものだと。ですからそこでなら人の事はいくら言うても思うても出来んのですからね、一番確実なのは自分自身が信じられる私になろうと精進する事だけならできます。誰からでも信用されれる私、そこを精進していくということは出来ますから、そこを極めて行く以外にないようですね。
 そこに頂けれるのが私は人徳だと思います。家のお父さんは間違いがない、家の家内は間違いがないと、例えば夫婦がいわゆる相和して行く事が出来る事であり、添いおうて行く事が出来る。そこに夫婦の幸せがあるわけです。これは親子の場合だってそうです。いわゆる私どもが間違いのない人になるということが、いわゆる実意な人になるということなんです。お客さんからでもあの店は間違いがない、あの人が言うてござるこっじゃから間違いはない、よし間違うたところであの人の事じゃから。
 余っ程どよくせきな事であったであろうと、言う風になって苦る間違うても、日頃それを積んでおけば。あぁあの人の言う事は当てにはならん、当てになる事でも当てにならんと思われる。それでは人格を作って行く事は出来ません。ありゃもう言うばっかりもうほんな口ばっかり、これで例えば神徳を積んで行くと言う様な事は出来ませんと私は思う。先ず私は今日はね神徳を受けていけば、人徳は付いて来るとそういう見方もあります。けれども私はここの所は、ひとつ人徳を先ず得なければならない。
 人徳は人格だと。人格を頂くためには私が間違いのない私。そこの所をいわゆる信心する人は何事にも真心になれよと。仕事が出来るとか出来ないということじゃありません。仕事は誰よりもそれは垢抜けしなかったり、遅々としたりしておりましても、問題は間違いがないということ。何事にもいわゆる真心になれよと真心になれよと。私は本気でこう言う所にですね、取り組んで行かなければ、いわゆる生きたくば神徳を積みて長生きをせよという、生きたくばと言う事は、人間の求めて求めてやまないもの。
 それはだから死ぬる生きるということだけでは無くてね、私共の願いであるものが与えられたくばと、それをそういう広大なおかげを受けたくば、神徳を積めよということ。なら神徳を積ませて頂くということはね、先ず神徳を受けるということの前に、人徳を受けよと。人徳と言うのは人格だと。神徳が神格なら人徳と言うのは人格だ。その人格を受けて行く為にはね、他人ではない自分自身が間違いのない私になる事。自分自身が信じられる私になる事に精進する事。
 そこで先ずはっきりしなければならないのは、自分のどこが信用受けられない基かということを知らなければいけません。私はあのうこの頃、ある人の書いたものを読ませて頂いて、非常に感動した事がある。私本当にその人はあのその人が自分で言っておるように、ところがその人がですね、私共がそこを感じておったですが、自分がねそれを知って自分がそれをね知ってる。自分がそれを極めておる。自分が人から好かれない自分が、その自分の一番の欠点を知っている。
 その欠点をですねもうはばかるところなく、大概のものがそのこのところをね、十重二十重に隠そうとするでしょうが。どうぞ私の悪かとこを教えて下さいちゅうて、本当に突つかれどもすると、もう腹立てるでしょうが。この人はその本当にそういういわば、いけない良くないものをですね、赤裸々にここに、あの文章の上に書いておるということです。私はこの人のそこんところを読ませて頂きよりましたら、涙が流れた。はぁいわばその人を見直した。
 本当に私が今までその人に対して思うておった事がです、本当人間の本当人間見た目では分らんなということを感じましたがね、その人がその自分の事をこう赤裸々に書いております。私はこの文の中でここが一番素晴らしいと思う。「たった一つの小さい事にも、すぐ怒りそれを顔に出す私。人の事となるとすぐ批判する私。人の意見を素直に受け入れれる事の出来ない私。本当に自分自身情けない事でございます」と書いてある。もうまさしくこの通りの人なんです。
 だからもう本当に私がある十何年前、縁があってこの方のお取次ぎさせて頂いた事があるんです。そしたらですねそのコップがね、薄いあのビールを飲むようなコップが沢山こう並んでいるんです。そのコップがひとつこう飛びあがっている。それがジャンジャンジャンジャン、その他のコップを全部こうやって割って行く所を頂いた。みんな割ってしまったけん、割った自分自身のコップもうさんざんに割れておるというんです。だからあなたはこう言う性格、ここのところを改めなければと言うて。
 まぁその時は私の信心に少しは帰依してあられた時代ですから、話した事がございますがね。けどもその人がです、あのうもう本当そういう人だとこう思っていましたけれど、ここにはっきりこう自分のそういう言う欠点をですね、もう本当にこの人がここに、あの気付いてこれが取り組んで行く事になったら素晴らしかろう、私はこれを赤裸々に出せるということが素晴らしいと思うんです。自分の素直でない例えばもう、とても中々人には言えないもの隠したいもの、取分けこの人はもう本当にそうです。
 もうたった一つの小さい事でももうすぐ怒るんですその人は。それをすぐ顔に出すんですね。人の事になるとすぐ批判する私。確かにもう人の事はどうかけちを付けなきゃ気が済まんちゅうな人です。それを自分で知ってきたということがね、人の意見を素直に受ける事の出来ない私。命令口調だという妻頑固おやじであるという長男、何一つ理解しないお父さんという娘と言う様に、そのう親子家内からでもですね、その様な風に見られておる自分と言う事を、あのこれは本当にそうなんですこの人は。
 それをね私はあのうそれを知って改めていくと言うところに、この人がいわば人格を受けて行く訳になりましょうけれどもです、私はそれ前に自分と言うものを知ってそれを人の前にでも出せれると言う事が素晴らしいと思うですね、自分の欠点を。ですからその信心を信心する人は何事も真心になれよと、と言う前にですね、信心になるという前に自分と言うものを本当に見極めなければいけんです。次に「わが心でわが身を救い助けよ」と、これはいわゆる生きたくば神徳を積みてと仰る。
 その神徳を積んで行くために、いわゆるその前に一つ人徳を受けなきゃならない。人徳とは人格である。人格を人格を受けるためには、先ず何事にも真心にならなきゃならんと同時にです、自分で自分の心を救い助けていけれる、おかげを頂かなければですね、自分が治まらないです。自分が自分自身がみんなに信用して貰える自分、間違いのない自分にならせて頂くためにはです、自分自身の身が先ず救い助けられなければ。それは自分の心で救い助けよとこう。ここにいよいよ真心が必要である。
 いわゆる教えを頂くということが大事である。自分が教えを頂く事によって自分の心が開ける。心が開けるところに自分の助かりがそこにある。自分の心をわが身を自分の心で救い助けて行く事が出来る。「生きたくば神徳を積みて長生きをせ」よと。生きたくば神徳を積みて長生きをせよ。それは長生きということだけではないとかね、生きたいという長生きをしたいということは、みんな一塩のそれを願わない者はない。それを願っておる。と言う事は私共が願ってやまないもの、
 それが受けたくばそれを頂きたくば神徳を先ず積めよとこういうこと。その神徳をなら積むためには先ず人徳を頂けよと言う事。人徳と言う事は人格だという人格だとは、あの人は間違いのない人だと言われる自分になれと、自分よがりで自分な誰彼でん信用されとると言う様な思い方を先ず捨ててね、そして今いうここで今読ませて頂いたようにですね。これはあの北野の高橋さんが書いておられる、北野の教会の。確かにこの人はもうこの人がここを書けるところに素晴らしいと思うんです。
 高橋さんが自分のほんうとにもうその欠点をですね、あの知っただけではなくてそれを人に話せれると言う事が素晴らしいです。本当にこの人から、いま自分が今ここに気付かれたところが改めて行かれたら、絶対人徳を受けて行かれるでしょうねこの人は。私は十何年前にこの人の事について頂いたお知らせが、今そのガラスのそれであったように私共がですね、自分の欠点を知るだけではなくて、その欠点をね赤裸々に出せれるだけの勇気がいるです。でないとそれに取り組まないです。
 自分だけでこっそりとしとった分では。そこに何事にも真心になれよという前提がそこにある訳です。そういう気持ちで私はね何事にも真心にならせて頂かなきゃいけんです。何事にも真心になれ。そのためにわが心でわが身を救い助けよと仰る、わが心でわが身を救い助けるために、一生懸命な信心がいる、いわゆる一生懸命な教えを頂く事が必要になって来る。そして自分自身の心が開けて来る、自分自身の心が助かって来る。その助かった心で何事にも信心になっていかなければならない。
 何事にも真心になって行かなければならない。助かった心でいわゆる真心になっていく。しかも自分の一番弱点とでもいおうか、自分のいちばんここを改まらなければとね、言う間違いのない私にならせて頂くための信心に焦点を置く訳です。そこから私人徳が受けられる、いわゆる人格が得られるとこう思う。その先に神徳を受けて行く道がある。その向こうにです私が日頃ね、ここではもう神徳を受ける事ばっかり申しておりますが、神徳を受けていく、その向こうに神徳成り行きを大事にしていくとね。
 信心辛抱させてもらわにゃとと言う神徳を、人徳を受けたその人徳を受けていく、そのまひとつ向こうに神徳の受けられる道が開けて来る。そこへ生きたくば神徳を積みて長生きをさして頂けれる。いわゆる生きたくばと言う事は、私共が求めてやまないものが与えられてくる。そこに信心さして頂く者の幸せがあり神様の願いがそこにある。どうぞ信心しておかげを受けてくれよと仰るおかげは、そのそういうおかげなんだ。私共が改まりに改まって、そしてそこに人徳を受け人格を作っていくということ。
 そこんところを教祖の神様のいわゆる御あられ方と言うものを、もう一辺思うてみなければいけない。なるほど教祖の神様と言う御方はです、そう気のきいた御方であるとか、頭が良い御方であったとか、器量が良かったとか、才覚人であった言う様な事ではないけれども、いちお百姓に過ぎないけれども、もう言われる事成される事がそのままが、天地日月の心であった。いわゆる実意そのものであった。その上に信心を実意丁寧神信心がなされる。
 そういう生き方に例えば自分の身は養子でおありになりながら、村内ではよそ者と言われるその風習があった中にですね、やはりいつの場合でも人から立てられておられた。そういう例えば人となりと言うものがです、いよいよ信心になっておいでられるのですから、神徳が受けられるはずね。私共はどうもここんところが欠けておる。いわゆる人徳を受けて行くというところにですね精進しない。特に合楽の場合はそれが強い私を始め。神徳にはまぁそれこそ昨日の御理解じゃないけれども。
 徳の亡者と言われるくらいに御神徳を受ける為なら、あらゆる修行もいとわないと言う様な所がありますけれども、人徳を受けていくということには非常に関心を持たない。それでは本当に完璧な神徳とでも申しましょうかね、足ろうたやはり神徳と言う事になってこない。人徳を受けさせて貰い、そしてのちに神徳を受けさせて貰うという、これを考え方では神徳を受けりゃ人徳は付いて来ると、そういう考え方もあります。
 けども今日の場合はどこまでも人徳を先に受けて行こうと。そんためにはいわゆるわが心でわが身を救い助けよ、信心する人は何事にも真心になれよと言う様なところをですね極めて行く。そんためには先ず自分自身の、ならどういうところが自分の間違いか。あの人は間違いのない人じゃと言われない基はどこにあるか。これがその欠点である家内からでも子供からでも好かれない。
 それを例えば高橋さんは見事に自分の欠点をここに書いておられますようにです、ここんところにだから取り組んで行かなきゃ駄目ですよ。人ん事と言うたらすぐ批判する、そういった自分を知っちゃるから、そういう人の事なんかは決して言わんような改まりになっておいでられるところにです、今後の高橋さんの信心があろうと。いわゆる人格を受けて行かれる基があろうと思うのですけれどもね。
 それをまず自分で極めて、そこんところをひとつとっちめて行くと言った様に、その改まりの上におかげを受けて行かなきゃいけません。生きたくば神徳を積みて長生きをせよと。これは生きるとか死ぬるとかと言う事だけじゃないと言う様な事。私共が求めてやまないおかげを受けたくば、神徳を積めよと仰っておるということをね、信心の心得の4カ条の中からただ今の様に頂いた訳ですね。
   どうぞ。